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2008-09-16

[]TRPGブロガー入門 09:14

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 ネット上での批評をめぐる言論を眺めているうちに、吉田アミ氏が『ヨイコノミライ 完全版』(4)きづきあきらより引用した、強烈なエントリを思い出したので、同様に貼ってみました。

 このコマの後に続く言葉が好きです。

 「誤解しないでね。私、本当の批評家は大好きよ。作品への新しい読み方を提示して、作品と作家と読者に、新しい道を拓いてくれるから。」

 どうもTRPG界隈の批評活動は、旨く運んだためしがないような気がしています。

 TRPG界隈において、批評活動を行うさいに気をつけるべきことは何か。そしてまた、エントリ批評対象となる前に、TRPGブロガーが持つべき心構えとは・・・。

 そういった基本的な事柄の確認を、すっ飛ばしたまま、長年ドンパチやってきた結果、無益な過去反省し、諍いをよしとしない儀礼的無関心が台頭してきたのかも知れません。

 「ロールプレイ」と「なりきり」に ついて書くなど、TRPG界隈で活動していたiwatamさんが、ネットの議論は低レベルだ!と言って「議論のルールブック」を書いたのも、何か象徴的なことのように思えてしまいます(穿った見方ですけれど)。

議論のルールブック (新潮新書)

議論のルールブック (新潮新書)

 まあ、私自身、現状に不満はなく、TRPG界隈での批評活動が盛んになった方が良い、と考えているわけではありません。ただ、このままですと、ブログにTRPGについて書くのが躊躇われるほどに、批評という行為が禁忌されてしまうのでは、と危惧することがありまして、このエントリを書くことにしました。

 これからブログを始めて、TRPGについて書いてみたい人に対して、また、批評や、批評への批評を行いたい人に対して、私が気をつけていることを紹介させていただきます

 もちろん、「俺様の素晴らしいリテラシー教授してやるぜ!」という内容ではありません。それができるなら、とっくに凄い批評を書いています(笑)

 むしろ、拙いブロガーではありますが、「このくらいは気をつけるべきと考えているのですが、どうでしょうか~」という内容なので、参考にならん!と怒るのは勘弁してくださいね(汗)。

はじめに

 感想批評定義は、人によって異なります。このエントリでは、感想批評の違いは、ただ思ったことを書くのか(感想)、そこに評価を含めるか(批評)、の違いであるとします。

 私は、感想だろうが、批評だろうが、何でも好きに書いて良いと考えています。

 と同時に、自分の考える「守るべきルール」みたいなものを主張するのも、自由であると考えています。そのような主張を行う人が、自分の考える「守るべきルール」から外れた誰かの感想批評に対して、批評を行うのも、また自由でしょう。

 ただし、「守るべきルール」を提示された側は、自ら納得するか、強制力が働かない限り、それに従う道理はありません。

批評が好きです

 その上で、私は批評が好きであることを明言します。

 ともすれば、批評や議論というものは、想定する何者かを(世間一般の認識や、特定の思想を持つ人物といった、曖昧な仮想敵が対象の場合もあります)論破することのみを、目標としているように認識されがちです。

 しかし、批評や議論を通して、「私はこう考える」という意思を伝えたところで、相手に何某かの行為を促したり、認識を改めさせるのは困難です。ましてや、ネットにおいては、細かな用語の定義を定めながら、建設的な対話を進めることは稀ですから、発信した情報が思惑通り正確に相手に伝わることは期待できません。

 よって、ネットにおけるブログ等の個人メディアを用いた批評や議論は、何者かを論破することを目標とした場合、そもそもの意味さえ問われる存在ではないでしょうか。

おとなの小論文教室。

おとなの小論文教室。

 ですが、私はそのような認識は持っておりません。私は批評が好きなのです。

 何故なら、批評や議論を通して、自分とは違う視点で物事を見ている人の考えに触れるのは、とても楽しいことだからです。

 批評や議論は、己の主張を通すために何者かを論破することのみが目標ではなく、本質的には、あくまで自分の意見を述べることであり、相手の話を聞くことではないでしょうか。

 個人的に、批評を読むことは、他者の持つ自分とは異なる視点を得ることで、物事の多面的な捉え方を知る、良い切欠であると考えています。また、議論とは意見交換することである、と捉えた場合、相手を単に論破することを目標とするよりは、有意義であるように感じられます。

書き手の姿勢

 以上を踏まえて、自分が書き手となった時に気をつけたいことは、「この文章は何を意図して書くのか」を意識することです。

 例えば、もちろん議論において、論破を意図しても良いでしょう。しかし、論破が目的であることを対象に気づかれなかった場合、単なる補足や異論として、スルーされてしまう可能性は高まります。

 ですから、「この文章は何を意図して書いたのか」が、なるべく読み手に伝わるように心がけると、様々な誤解と、そこから生じるトラブルを回避できて、有用であると思います。

読み手の解釈

 貴方ブログエントリを書き、それに対して反応があって、何らかの意見が書かれたとき、貴方は文脈から相手の意図を読むでしょう。しかし、そこで意図を読み違えると、文脈の捉え方が大きく変わり、書き手の意図とは異なった解釈から、誤解が生じる可能性が高まります。

 想定される意図を、幾つか上げて見ましょう。

 感情的に反発している(悪口・罵倒侮辱・誹謗・中傷)。反対している(反論)。別の考え方を示している(異論)。理解できずに混乱している(疑問)。理解しかねて訊ねている(質問)。確認している(確認)。抜けている視点や要素を指している(指摘)。記事の訂正や認識の改めなど、何かを要求している(要求)。

 これらのうち、いずれの意図であっても、ひとつ解釈を間違えれば、まったく噛み合わないのは明白ですね。

 以下に、特に生じ易い誤解として、気をつけたいことを二点述べておきます。

ネガティブ意見だと誤解される

 書き手は「反論・異論・疑問・質問・確認・指摘」のつもりなのに、読み手が「悪口・罵倒侮辱・誹謗・中傷」と受け取ってしまうことが往々にしてあります。

 これは書き手が、端的な文章で余計な修飾語を使わないこと。また、読み手が、相手の意見から主旨を読みとるように心がけることで、トラブルの回避に努めるしかありませんね。

 この誤解が生じると、言うまでもありませんが、非常に致命的です。関係を切られてしまうかも知れません。

感想ではなく批評だと誤解される

 単なる個人的な感想を書いたつもりが、批評であると受け止められて、議論を吹っかけられることがあります。自分のブログで、たわいの無い感想を述べていたはずが、いつの間にやら、論客の包囲網が敷かれていた!なんてことも、あり得るわけです(笑)

 こういう目に会うと、ただの感想も書けない個人ブログって、いったい何なんだろう、という気持ちになるかも知れません。ひょっとすると、「TRPGについて、ちょっと書いてみたいけれど、叩かれるのが怖いなぁ」といった具合に、新たなTRPGブロガー新規参入を阻む空気が、今のTRPG界隈には、あるのではないでしょうか。。

ネット時代の反論術 (文春新書)

ネット時代の反論術 (文春新書)

 TRPG界隈は特殊なコミュニティです。他の界隈で言うところのオフ会的な、コンベンションなどでの交流が盛んであることから、ハンドル実名に近いかたちで使われています。ですから、知っている人が、地方スレなどでボコられている姿を見た場合、オフでは無関係な者同士が匿名で罵りあう一般的なネットでの叩きと違って、その生々しさは尋常ではありません。ちょっとした風評被害です。

 なおさら、少しでも目立たない方が良いのでは、と考えてしまうのではないでしょうか。これが行き過ぎると、批評どころか、シナリオの公開や、レポートの掲載すら憚られる風習が生まれるのではないか、と心配しています。

批評だと議論をふっかけられるのは何故か

 そもそも、何故、感想ではなく批評だと誤解された場合、議論をふっかけられる可能性があるのでしょうか。それには、理由があります。

 このエントリでは、感想批評の違いは、ただ思ったことを書くのか(感想)、そこに評価を含めるか(批評)、の違いであるとしました。評価、すなわち価値見積もるという行いは、個人の中で完結しません。価値があると「思う」のは、感想であり、暗黙知です。暗黙知言葉や体系にした、「共有可能な知として指し示す」形式知こそが、評価であるといえます。

 要するに、それがどう面白いのか、それがどう面白くないのかを、他人に自分がどうしてそう思うのかを伝えられ、納得させられるものが「批評」であると、認識されることが多いわけです。

 したがって、「批評」であれば、個人の感想として完結せずに、ある程度は客観的な事実に基づいた内容があり、理解できる理屈が示されなければならない、と考える人がいて「俺にも分かるように、客観的な事実や納得できる理屈を示して見ろや」と議論をふっかけてくるわけです。これは恐ろしい!(笑)

 感想批評勘違いされないためには、「私は~と感じた」だとか「これは個人的な感想ですが~」などと、予防線をはっておくことが有効です。

多くの人に読まれる

 いずれにせよ、自分がネット上に文章をあげることによって、それを多くの人が閲覧し、様々な反応を返してくることを、覚悟していた方が無難でしょう。

 多くの人の目に触れることになれば、書いてある内容に不満を持つ人の数が増えるのは当然のことです。また、書いてある内容を誤解する人の数が増えるのも当然のことです。

 そのことを理解せずに、感想へのネガティブな反応が殺到したところで、「そんなつもりではなかった」「そんなこと知らなかった」と言っても、事態がおさまることはありません。

勘違いされることもある

 何かについて否定的な意見を述べた場合、「それって俺のこと言ってんの?」と、想定外の人物が突撃してくることがあります。同様に「それって俺の友人のこと言ってんの?」というパターンもあります。クリリンのことかー!

 誰(どのような層)に対して、何を伝えたいのかを明確に示していれば、そのような誤配は減らすことが出来ます。また、ある立場からの発言ならば、意味が通じる、あるいは、理解できる、納得できる、適切な言葉である、などと受け入れられることもあります。

 どのような立場から、誰(どのような層)に対して、何を伝えたいのか・・・といった、スタンスを表明しておくことも大切ですね。

善意に解釈されることを期待しない

 書き手は様々な事柄について、考慮したうえで書いているのかも知れませんが、読み手は「こんなことも知らないのか」だとか「この場合のことを考えていない」といった具合に、書かれていない部分を勝手に判断するものです。

 「それは考慮していますが、趣旨から離れてしまうので省略しました」と反応するのが億劫になるほど、読み手は、書かれていない部分について指摘するものです。そういうものである、と考えておかねば、心労は絶えないでしょう。

 なお、私が人のブログを読む時には、なるべく善意に読み解くように心がけています。たまに「この人はあのシステムのことを知らないのかな」だとか「このようなケースを考えずに言っているのか?」と穿ってしまうことがあるのですが、そう考えるときりが無いので、言及するなら、善意に解釈した上で、相手の書いたことや、言ったことのみを対象に語るべきだろうと考えています。

 関連して、他人の思惑を想像するのは勝手ですが、その勝手想像を根拠に誰かを揶揄するような人は、好きになれません。

ブログ炎上 ~Web2.0時代のリスクとチャンス (アスキービジネス)

ブログ炎上 ~Web2.0時代のリスクとチャンス (アスキービジネス)

 トラブルが発生し、対処できないほどに炎上してしまった時は、ひとまず何もせずに、気分を落ち着かせてから行動するべきです。一度コメント欄を閉じるのも良いでしょう。新しい記事でエントリを流すのも、事態を沈静化させる有効な手段です。

 個人的に、どちらも好ましい行為とは思いませんが、追い詰められて苦しいのなら、我慢せずにそうしていただきたいと思います。

 自分の考える「守るべきルール」として、「返事は必ずしなくてはならない」を掲げる人が出てきますが、回答を求める欲求は理解できるものの、相手の身勝手な欲求を満たしてあげるために、返事をする義務感を感じ、鬱陶しさや息苦しさを感じる義理はありません。嫌なら無視しましょう。返事をする義務感に苛まれ、心を押し潰されそうになっている人を、非常に多く見かけます。レスは任意です。

 なお、そうした局面で「議論をするつもりはない」と述べるのはけっこうですが、そのように考えているのなら、反応を返さないことで、議論を発生させないのが、効率の良い在り方であると思います。

 また、今まさに炎上して「そんなつもりではなかった」「そんなこと知らなかった」と言う人達に対して、「貴方が辛いのは世間のせいではなく、貴方自身の選択なのだ」と自己責任論を述べる方が現れるのが、世の常ですけれど、苦しんでいる人の目の前で、それを口にするこの人は、親切なのかサドなのか、と疑問に思われる可能性があることも記述しておきます。

議論の流儀を破ってはいけない

 自分が言いたいことを自由に言えるのがネットの良いところです。もちろん、法や利用規約に反するのはいけないことですし、誰かに嫌な思いをさせる行いは、避けるべきであると考えています。しかし、基本的には自由です。

 自由ではありますが、議論には「公正なる言論によって行わなければならない」という流儀があります。正確には、そのような矜持を抱く人が多い、ということですが、兎も角、この流儀を破ることだけは、しない方が無難です。

 特に、自分の考える「守るべきルール」みたいなものを、自分以外の人に適用し、自分だけは対象にしない行いは、著しく公正を欠き、信用を失う恐れがあります。

 以下に、そうはならないように気をつけている具体例を、幾つか挙げておきます。

匿名での意見は信用ならねぇ、と匿名で語る。

上から目線でモノを語るな、と上から目線で言う。

批評活動をしておいて、いざ自分が批評された時に、それを批難する。

・遊ぶ価値も、読む価値も無い!と言いつつ、自分は作品や執筆者に粘着する。

・面と向かって言えないことを人に言うな!と面と向かわずネット上に書き込む。

批評と称して、エスパーのごとく書き手の思考を読み取った上で、書かれていないことに反論し、想定した人物像を批難し、こんなことを考えているのだろう、と勝手想像して嘲笑しておきながら、いざそれをされると「ちゃんと読んでから言え。俺はそんなこと思ってないし、書いてもいねーよ!」と逆ギレする。

 半分冗談ですが、わりと洒落になっていません(笑)。もちろん、上に挙げた例は、一概にそう言えることではないのですが、要するに、相手にされて嫌なことを、自分がしちゃいけないよね、ということです。

誰もが納得できる批評なんて無い

 ここまでは、相手の発した言葉を正しく読み解くように心がけ、また自分の言葉も正しく伝わるようにしたい、という話をしてきましたが、実際、批評の難しさは、もっと深いところにあります。

 批評を書いたときや、議論のさなかに、否定的な意見や、理解不能である、という見解がよせられた時は、つい「うまく伝わらなかったんだな」とか「言葉定義について、すり合わせ出来れば納得してくれるだろう」なんて考えてしまいがちです。

 しかし、それは大きな間違いであって、どこまでいっても「理解は出来るが納得いかない」ということが、世の中にはあるわけです。

 例えば、「昔のゲームは良かった、今のゲームはつまらない」という主旨で、批評を展開する人がいた場合、「昔」とはいつのことか。「昔のゲーム」とは具体的に何のことか。そもそも「良い」って何だろう。「今」や「今のゲーム」そして「つまらない」とは、どのような意味か?確りと定義を定めていけば、やがて誰もが納得できる・・・わけでは、ありませんよね。「そのように判断した理屈は理解はできるが、考え方には賛同できず納得いかない」ことがあります。

 人は立場や経験が違えば、視点も変わりますし、価値観は多様です。人間は完全な客体を得ることは出来ませんから、客観視にも限度があります。実証可能なものであれば「事実はこうだ」と納得させることは可能かも知れませんが、そうでなければ、批評の行き着く先は、結局のところ「俺はこのように思う」でしかありません。

 したがって、人は立場や経験が違えば、ある人には的確な批評に思えても、ある人にはそうは思えない、ということがあるわけです。

誰もが納得するTRPG批評

 これは、「誰もが納得できる批評なんて無いのだから、批評って意味がないよね」だとか「もう何でも適当に書いちゃえば良いんじゃない?」という話ではありません。逆に、誰もが納得できる批評なんて無い、という前提をおさえた上で書かれた批評こそが、TRPG界隈には必要だと思うのです。

 誰もが納得できる批評なんて無いのだから、誰もが納得する正しいTRPGや、正しいプレイ、正しいマスタリング、正しいデザインなんてのも、全部無いわけです。

 そのうえで、「俺の考える楽しいRPG」や、「楽しいプレイ」、「楽しいマスタリング」、「楽しいデザイン」を、自由闊達に語らう中で、誰もが納得する遊び方という幻想大きな物語)を捨て、新たな価値観(小さな物語)を創出していく時期にあるのだと感じています。

誰もが理解するTRPG批評

 ではTRPGにおける批評は、どのように展開すれば良いのでしょうか。

 心情的に納得してもらう批評を書こうとした場合、それは「誰もが納得する遊び方」という幻想にとらわれた、価値観押し付けや、価値観の否定に繋がりかねません。

 ですから、TRPGにおける批評活動は、ある価値観に基づき評価するならば・・・と論者の立場を明確にしたうえで、論者がそのように判断した理屈を(心情的に納得してもらう必要はなく)理解してもらえるような、理路整然とした思考法(新たな価値観)の提示によって、行われることが好ましいと考えます。

 具体的には、ログアウトの批評企画で、扱うテーマの再現性という観点から、TRPGシステムについて考えた朱鷺田氏の批評システムを評価することと、メカニズムポリシー間の相互作用を観察することは必ずしも一致しないとしながらも、その提唱を真として、一般のロールプレイングゲームシステムの評価法について議論したVampire.S氏の批評

 このような、誰もが(そのように判断した理屈を)理解できるように書くことが、暗黙知形式知化、ひいては「批評」と呼ぶに足る文章を書くことに繋がるのだと考えます。

 「理解は出来るが納得いかない」状況があるならば、納得させようと躍起になるのではなく、理解してもらえるように努めるしかないのだ、と思うのです。

悪魔の代理人

 雑誌広告批評」主宰者である天野祐吉氏は、「批評」が対象を抹殺するためのものと誤解されていると語りました。そして好ましく思うのは、対象を育てる「批評」であると言います。そのうえで、相手が「こんなこと考えていやしないだろう」と思う部分を責めるのではなく、「こんな考え方で見ると、さらに魅力的になる」と提示するのが粋であるとも言います。

 一方で、学問世界には、デビルズ・アドボケートというものがあります。もともとは、聖職者の教義を強くするために、悪魔役の人物が攻撃的で否定的な論を投げかけるというものです。これも、対象を育てる「批評」です。

 育てる、なんて言うと偉そうな話ですが、私もそのような批評が好きです。

 ただ、好きなものを批評する時には理性が働くものですけれど、嫌いなものを批評しているうちに、悪魔の代理人が、いつの間にか本物の悪魔になってしまうことって、あるんじゃないでしょうか。

 攻撃的な批評が相手を潰してしまった場合、賛同者からは拍手喝采を浴びるかも知れませんが、結果として見ると、TRPG界隈に、またひとつ無益な批評が増えた、という認識しか持たれないのではないかと思います。

 自戒の念をこめて、ここに記しておきます。